辯論部の活動

 辯論部の活動は大きく分けると、弁論と研究の二つに分かれます。
 弁論とは基本的に演説と同じで、各大学の主催する弁論大会で、十分程度の演説と、おなじく十分程度の質疑応答を行い、その優劣を競うものです。演説のテーマが決まっている大会もありますが、大抵の大会ではテーマは自由です。演説の論理的整合性や説得力に加え、声調や態度が問われます。
 その弁論を作る土台となるのが、普段の定例会で行う研究です。各人の持ち寄ったテーマについて、議論や輪読を行い、知識を深め、ものを考える力を養います。

辯論部の歴史

 そもそも、慶應義塾大学辯論部の起源は、 塾祖・福澤諭吉が1874年(明治7年)6月27日に「三田演説会」を発会させたことに遡ります。 「三田演説会」は、明治維新直後の当時、未だ揺藍期にあった日本国の真の独立を企図し、 近代の文明によって国民を啓蒙し、もって開けてゆく時代の指標たるべき人物の養成を目的としていました。 また、これを受けて、塾生内でも尾崎行雄の主宰する「協議社」、犬養毅の代表する「猶興社」、 その他「自由社」、「雄弁会」、「蘇張会」等の塾内弁論団体が各々活発な弁論活動を展開しました。 こうした弁論団体は、近代化の途上にあった我が国の国論に大きな影響を与え続けましたが、 時代の流れに伴って集合離散を繰り返した結果、1907年(明治41年)10月15日にようやく現在の「辯論部」が結成されたのでした。

 慶應義塾大学辯論部は1876年(明治9年)の協議社以後、 およそ130年にわたる輝かしい歴史を有する我が国最古の学生弁論団体として、 その活動において各方面から高い評価を得ています。 明治時代には、福澤の意図した「弁論術の普及、啓蒙」に力を入れ、 大正時代には現役国務大臣を招いて開催された「擬国会」による政策討論が行われました。 先の大戦中には、政府による言論統制のため活動を一時中断していた時期もありましたが、 1946年(昭和21年)3月1日に「辯論部復活宣言」がなされて以来、 占領下の沖縄への巡回講演やアメリカ・スタンフォード大学大学生との交流、 近年では各地の高校への巡回講演や文部大臣の講演会等、活発な活動を繰り広げてきました。 そして、「三田演説会」発足から百数十年が経過した今日においても、福澤の理想と意気を忘れることなく、 活動のより一層の充実発展を遂げようとしています。

演説の歴史

 自分の意志を多数の相手に伝達する手段として、演説や討論という方法を日本に紹介したのは、 福澤先生をはじめとする初期の慶應義塾入門生、すなわち慶應義塾の社中である。

 古来わが国には演説という習慣がなく、自分の意見を他に示し賛同を求めるには、 書面にしたためてこれを示す以外に方法がなく、重要なことは文章にするという文章主義が一般的であり、 口頭による意見の発表には十分に信頼のおけるものではないとの考え方が支配的であった。 しかし、この習慣を改めない限り、議会政治の開始はもとより公平な裁判の実施すら覚束なくなるというので、 慶應義塾では教室の中での教育以外に、社会教育の一方法として工夫されたのが、この演説であった。

 演説を始めるに当たって、手本とする原書を翻訳してこれを見倣うわけだが、 まずスピーチやディベートの訳語から作らなければならなかった。 スピーチの訳には、もと中津藩で藩士が非公式に自分の意見を上申する時に使った「演舌書」という言葉を 先生は思い出され、演舌の舌を、俗だからと説に替えて「演説」という訳語を作り、 ディベートは弁論・討論と訳された。 しかし、セカンドは賛成するという動詞には気付かず、ついに誤訳されてしまったが(『会議弁』)、 とにかく明治6年夏から福澤先生の自宅や他の教員宅で、他人の傍聴をゆるさず 十余名の有志の者のみで、演説や討論の練習に励んでいた。

 当時最高の知識人の結社とみられた明六社のメンバーですら、日本語はヨーロッパの言語 とは違い、大衆に意見を伝えるには適さないなどと見当違いのことを言う者(森有礼)もいたが、 その明六社の集会で先生はさり気なく時事問題について演説され、 日本語でも立派に自分の意見を他人に伝達することの出来ることを証明されて、演説の必要性をとなえられた。

 明治7年にはいよいよ三田演説会を組織して一般に公開することとし、 また演説や討論の仕方を手ほどきした本や規則を発表して、その普及につとめられた。 それに従い、この三田演説館の専用演説ホールとして明治8年に造られたのが、 現在も三田山上の南西隅稲荷山に建つ「三田演説館」であり、 この建物は明治期建造物の特異な遺構として、昭和42年国の重要文化財に指定されている。 今日でも三田演説館や学位授与式などに使用され、有効に利用されている。